牧野富太郎と伊吹山のお話し
作成:筒井杏正

 天性植物を好み、半世紀にわたり読みつがれてきた「牧野日本植物図鑑」を著し、自らを「草木の精」と称した牧野富太郎(1862-1958)。

 日本の植物学の父と呼ばれた富太郎は、十九歳で初めて伊吹山を探査して以来、希有な植物の豊かさに魅了され取り憑かれました。ここでは牧野富太郎と伊吹山に関わる話しや文献を紹介します。

富太郎が二十歳の頃→
初めて伊吹山に登り探査を行った。
※各肖像写真は、高知県立牧野植物館からの引用。

 富太郎は、明治14年6月初めて伊吹山を訪れます。その後たびたび伊吹山を訪れ、植物探査と採取を行い、明治の終わりごろには「伊吹山植物目録」を作成したといわれています。
(※「伊吹山植物目録」は、今のところ現存するかどうか不明)
 以来訪れるたび、山麓の民宿「対山館」が宿泊所となり、館主の高橋七蔵と親交が深まる中で、「伊吹山ほど面白い山、楽しい山はない」と常々もらしていたと言われています。

▲富太郎が初めて訪れた6月中旬の伊吹山花畑、現在の様子(2008.06撮影)

↑ 晩年の牧野富太郎

ヤマトグサは→
明治20年富太郎が
日本人として初めて学名をつけた
記念すべき植物である。
一見地味に見えるが雄しべが
垂れ下がる姿はユニークだ。
伊吹山でも5月下旬〜6月中旬に
見ることができる。

【イブキソモソモ名付けのエピソード】
 富太郎とともに採集に出かけたものが、1本の野草の名前を聞いたりすると彼は「そもそもこの種は…」と語り始め、その解説は延々としてなかなか終わらなかったそうです。
 そんなある日、伊吹山西廻りコースの岩場で新種のイネ科の植物を発見したため、その和名を付けることになりました。この時、同行の研究生たちは、富太郎のいつもの口癖を捉え「先生、イブキソモソモという名はどうですか。」と提案したそうです。彼らの半ば強引とも思える薦めだったのですが、富太郎は苦笑いしながらも承諾したことで、この名が付けられたと言われています。
【著書「植物一日一題」に登場する伊吹山】
 伊吹山は、富太郎の著書「植物一日一題」にも登場します。
「日本で最大の南天材」という題目では、明治39年44歳の時、滋賀県の人々の主催で、伊吹山植物講習会が開かれた際、山麓の春照(しゅんじょう)で宿した旧家的場(まとば)邸の巨大な南天について記載しています。
『植物一日一題』
牧野富太郎84歳の頃に書いた
エッセイ集。→
 また、『草木図説』のサワアザミとマアザミ」でも、京都大学生遠藤善之君の手を煩わせ、伊吹山のマアザミの生本現物を手に入れることができたことで、その形態が知ることができ、彼に感謝するという内容が記載されています。

富太郎の妻は、伊吹山を
藩領とする近江彦根藩
藩士小澤一政の次女
として生まれた。
※高知県立牧野植物館
<牧野博士の紹介>
【牧野富太郎の妻と彦根城】
 富太郎は、明治21年、26際の時、小澤壽衛(すえ)と結婚しました。
壽衛は、伊吹山の近くにある彦根藩井伊家の元藩士小澤一政の次女として生まれています。
 ところで、富太郎は結婚する前、伊吹山での植物研究の帰りに彦根城に立ち寄り、ここで新種のイチゴを発見し「オオトックリイチゴ」と命名しています。この種は彦根城にしか自生していないといいます。このことを思うと壽衛との結婚は、なにか伊吹山と因縁めいたものが感じられます。
【牧野富太郎と対山館主高橋七蔵】
 富太郎が定宿とした対山館主の高橋七蔵は、幼少の頃より登山客を眺めて育ちました。このため、彼は訪れる登山客に案内役をもかって出るほどでした。そんな折、牧野富太郎との出会いにより植物への関心が深まることとなり、植物学研究の生涯が決定することになりました。その後も富太郎との親交から、ますます植物学に精通し、自ら発見した新種のギボウシを富太郎の薦めで「シチゾウギボシ」と名づけ、学会にも貢献しました。大正7年には、いち早く一合目に対山館を建て、薬草風呂を設けました。今はありませんが、山頂では、その流れを汲む対山館という山小屋が、今も営まれています。
※ここで命名されたというシチゾウギボシは、植物図鑑に見あたらず何をさしているのか不明。