行道岩と修験行のお話し
作成:筒井杏正

<行道岩(導または堂とも書く)と役行者>
 奈良朝時代に役行者(えんのぎょうじゃ)という人がいました。この行者は修験道の祖といわれ、空が飛ぶことができるとして、その名声は都まできこえていました。
 ある年、この行者が伊吹山の七合目辺りの北麓に行道岩と呼ばれる断崖で修業している時、都から使者が訪れ、「天皇が病に伏せられたため、病回復の祈願をしてほしい。」懇願しました。
始めは修行の身であるからと断ったそうですが、何度も懇願し、帰ろうとしない使者の天皇をあまりにも思う心についにほだされました。
すると行者は、たちまちに空を飛び、琵琶湖の上を横切り、その日のうちに都に着き祈祷をしたところたちまち全快されたということです。

▲今も、伊吹山に修行を求めて念仏僧が訪れる。
<行道岩と幡隆上人>
 幡隆(ばんりゅう)上人は、江戸後期の人で槍ヶ岳の開祖として知られています。この上人も役行者と同じように伊吹山の行堂岩で修行をしていたエピソードが残っています。
 六月の初めに降りかけた雨が七月が終わろうとするのに、一向にやみそうにもないのです。 百姓たちは困りきっていました。
 「草取りもできぬわ。」
 「この雨じゃ草取りどころか、米もとれず。」
二、三人寄ると、こう語っています。そのあげくこの原因はきっとあれだというのです。

 天保元年(1830)頃、伊吹山頂の八ツ頭(行者岩)の大岩の下で鐘鼓をならし読経する行者がいました。この人を幡隆上人といいました。この上人は火を使ったもの、塩気のものはいっさい食べずそば粉を水でかいて食べていました。しかし、この幡隆上人がいるから雨が降り続くのだというのです。

 付近の百姓たちは相談して、上人に下山してくれと頼みました。上人は、こころよく、百姓の申し出を聞き、岐阜県笹又の南長尾という所に草庵をたてたのでした。
播隆上人肖像画
播隆上人肖像画(岐阜県兼山町浄音寺蔵)
上人が下山する日は常にない大雨でした。
しかし、上人は雨傘もかぶらないで山を降りました。
 「お上人様を見てみよ。」 
と迎えに出た村の一人が叫びました。何としたことでしょう、上人の衣はこの雨に少しも濡れていないので、村人の驚きは大変なものでした。上人が草庵から出るときは、暗夜に火をともさないで、ただ念仏を唱て往来したというのです。普通では考えられないようなことが数々ありました。いつしか村の人たちは幡隆上人は「生き仏様だ」というようになり、遠近より上人をおがむため多くの人が訪れたということです。のち一心寺を建立し、笹又には幡隆上人の地尊もあります。多々の人に悦を与えた上人は、天保十一年加茂郡太田で、この世を去りました。
行堂岩で祈る上人