彦根の観光ガイドときどき滋賀

彦根城見どころガイド

Hikone Castle

 彦根城の見どころといえば、やはり国宝の天守や現存する建造物ですが、城本来の機能、つまり軍事的な役割を確認するのも面白いです。実際、彦根城では戦は起きませんでしたが、現存する二重の堀(当時は三重)をはじめ、建物以外の防御構造も残されています。また、藩主の別邸であった下屋敷が城内に現存しているのは彦根城だけだということです。
 このような、城郭としてまとまった姿を今に残す「ほんもの」の魅力を楽しんでいただきたいと思います。彦根城は生きた歴史の教科書、もしくは本物の城郭テーマパークなのです。

    見どころポイント
  • 1-国宝天守をはじめとする現存建造物
  • 2-防御に備えた、全体構成と設備の数々
  • 3-彦根城だけに現存する下屋敷
  • 城内上空写真
彦根城DATA
□築城年【江戸時代】慶長9年(1604)~元和8年(1622)
□築城者:井伊直継・直孝
□形状:平山城
□縄張り:連郭式 (用語解説参照

はじめに 

 彦根城の特長の一つは琵琶湖から水を引き入れた、三重の堀です。現在、外堀は一部のみ、中堀、内堀は現存しています。外堀は昭和の時代に原虫感染症マラリアが大流行したことが原因で埋め立てられたそうです。外堀のさらに外側を流れる天然の芹川も防御の役割を果たしていました。そのためにこの川は城が建設される時、お城を守る向きに付け替えされました。
 天守が立つ本丸が置かれた「第一郭」には家臣団筆頭の屋敷が配置されました。内堀と中堀に挟まれた「第二郭」(二の丸または内曲輪)には、第一郭に続く重臣の屋敷が軒を並べました。中堀と外堀に挟まれた、「第三郭」(外曲輪)は武家屋敷と町民屋敷が建ち並んでいました。
 第三郭から順にガイドしていきますので、彦根城に攻め入る敵になったつもりで本丸まで登ってみてください。実際は下記のモデルコースで行くと効率よく巡れます。

モデルコース
1.旧鈴木家長屋門→2.いろは松→3.埋木舎(うもれぎのや)→4.旧池田屋敷長屋門→5.二の丸佐和口多聞櫓→6.馬屋→7. 脇家屋敷長屋門→9.表御殿(彦根城博物館)※→10.鐘の丸→11.天秤櫓→12.時報鐘→13.太鼓門櫓→14.天守→15.西の丸三重櫓→16.玄宮楽々園→8.旧西郷屋敷長屋門

※見学に時間を要しますので、最後にされるといいかもしれません。
彦根城域へはJR彦根駅から徒歩約10分です。通常、所要時間は90分程です。入城券売り場は表橋を渡った、表門にあります。駐車場のご案内はこちら

第三郭へ

1.旧鈴木家長屋門

 外曲輪(第三郭)に立っていますが、中堀に接近した中級武士屋敷の長屋門(用語解説参照)です。文久2年(1862)の墨書があり建築年代を示す貴重な資料となっています。残念ながら外観のみの見学になります。

2.いろは松

 第2代藩主直孝の時に植えられた松で、当時は「いろはにほへと…」と47本あったので、この名称で呼ばれるようになったということです。攻めてきた敵の隠れ場所になるので堀には木を植えないのが当時の常識だったということですが、堀の増水時の目印のためだったのではないかと考えられています。人や馬の通行の妨げにならないよう、根が地上に出ない土佐松が取り寄せられました。残念ながら今は47本に足りず、植え替えにより土佐松でないものも混ざっているということです。

3.埋木舎(うもれぎのや)

 埋木舎は彦根藩第16代藩主であり、幕末の大老、井伊直弼が青年期を過ごした屋敷です。直中の14男として生まれた直弼は跡継ぎでもなく、養子へ行くあてもなく、家督争いを防ぐための彦根藩の掟により城外で質素な生活を送ることとなったのです。「世の中をよそに見つつも、うもれ木の埋もれておらむ、心なき身は」と、自らの境遇を花の咲かない埋もれ木に例えたことから屋敷の名称が付けられたということです。しかし直弼はひたすら身心の修練に努める日々を送り、兄の急死により突然藩主となった後、大老として日本を開国へと導きました。
 いろは松から埋木舎に至る道で、キムタク主演「武士の一分」のワンシーンが撮影されました。
>>TEL.0749-23-5268/大人300円/月曜日、お盆、年末年始休(冬期不定休)

4.旧池田屋敷長屋門

 池田家は大坂の陣以前「伊賀之者」として井伊直政に取り立てられた忍者の家であり、大坂の両陣に従軍しています。後、士分となり、4代井伊直興に重用され一時は250石となり幕末期には180石の中堅藩士の家でした。江戸中期頃からこの屋敷を拝領(用語解説参照)しています。こちらも外観のみの見学です。

第二郭へ

5.二の丸佐和口多聞櫓【重文】

 中堀と内堀の間に配置された「二の丸」の入り口の両側に並んでいる櫓です。当時は両側の櫓の間には佐和口門という櫓門があり、左右の櫓がこの門でつながっていたといい、今も路上にその門の基礎が残っています。(多聞櫓:細長い様式の建物で武器の倉庫などに用いられる他、防壁の役割も果たすため防御上、重要な場所に建てられることが多い。)向かって左側の櫓は1767年の火災により焼け、1769~1771年にかけて再建されました。右側は1960年に井伊大老開国百年事業で復元されたものです。

どんつき
 佐和口多聞櫓の入り口を進むとすぐ、右へ急カーブしています。このような構造を「枡形虎口(用語解説参照)」といい、敵に一瞬行き止まりかと思わせて侵入を防ぎます。彦根では「どんつき」と呼んでおり、城内だけではなく市街地にもいくつか見られます。

6.馬屋【重文】

 藩主などの馬21頭を常時、使用できるように収容していた建物で、当時は現在の売店まで延びていたようです。近世の城郭に馬屋は必ず設けられていたということですが、全国に残る大規模な馬屋としてほかに例がありません。

7. 脇家屋敷長屋門

 二の丸駐車場のすぐ横にある、美しいなまこ壁の建物が家老脇家の屋敷です。元々武田家に仕えていた脇家は武田家滅亡後、徳川家康に仕えた後、井伊家で家老職を代々務めました。この門の奥に立派なお屋敷やお庭があったのですね。

8.旧西郷屋敷長屋門

 内曲輪(第二郭)は当時の上級家臣の屋敷地で、その一角に西郷家が建っていました。明治以降、現在に至るまで裁判所として使われています。西郷家は遠州(現・静岡県)の出身ですが、家康の命で井伊直政の付家老となり、幕末まで仕えました。この長屋門は彦根城下では現存する長屋門中最大のもので、よく旧状を保っている貴重な遺構です。この屋敷地の北辺には壁塀が続き、その西端部には高麗(こうらい)門(用語解説参照)が建っています。

第一郭へ

○用語解説
【平山城】平野部にある丘陵を利用して本丸を築き、周囲に外郭を設けた城。
 (外郭/ 郭または曲輪(くるわ):周囲を土や石などで築き巡らしてある囲い。)
【山城】険しい山に築かれた城。住むには不便で防御専用として築かれることが多かった。
【平城】平地に築かれた城。代表的な松本城の場合は攻めによる戦略のため平地に築かれた。
【縄張り】曲輪や堀、門の配置、または城郭の構成をいいます。彦根城は彦根山の山頂に本丸(天守)置き、山の尾根に沿って「太鼓丸」、「鐘の丸」といった曲輪を直線上に配置する「連郭式」。なお、本丸の背後に「西の丸」を配置し、搦め手(背後)の防御を固めています。
【長屋門】上級武士の屋敷の門形式の一。使用人や家臣の居所とした長屋を左右に備えた門。
【拝領】主君から領地が与えられること
【虎口】出入り口
【高麗門】門の形式のひとつで、本柱の後方に控え柱を立て、本柱が支える切妻屋根とは別に、これと直角に控え柱の上にも左右二個の切妻小屋根をかけたもの。城の門に多い。
下屋敷の庭園「玄宮園」から眺める天守。
天守写真
中堀から眺める天守。
いろは松
埋木舎
(映画「武士の一分」ロケ地)
二の丸佐和口多聞櫓
どんつき
馬屋

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